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『大和葛城宝山記』解説3のつづき
伝に曰はく
劫初に神聖在り。常住慈悲神王と名づけ〈法語に尸棄大梵天王と曰い、神語に天御中主尊と名づく〉大梵天宮に居る。
衆生等の為に。
広大なる慈悲誠心を以てす。
ここで『大和葛城宝山記』1では違細(ビシュヌ)とされた“神聖”が、梵天(ブラフマー)であり、天御中主尊(アメノミナカヌシ)とされています。
『大和葛城宝山記』1では、違細(ビシュヌ)のヘソの蓮に生じた梵天が天御中主尊(アメノミナカヌシ)を含む八子を生じたとされていますが、ここでは違細(ビシュヌ)=梵天=天御中主尊(アメノミナカヌシ)とされています。
故に百億の日月、及び百億の梵天を作りて、無量の群品を度す。
故に諸天子の大宗と為し、三千大千世界の本主たる也。
日は則ち自性法身の応化の如来にして、常住の日光也。
道徳の妙、陰陽の位なり。
之に因りて、日は則ち陽の精上りて日と為る。
故に日輪の下面の頗胝迦(はちか)宝は、火珠の成る所にして、能く熱照す。
月は則ち陰の精上りて月と為る。
故に月輪の下面の頗胝迦(はちか)宝は、水珠の成る所にして、能く冷照す。
日月の熱涼は蓋し是の理に由る也。
百千の諸大天神等、而うして日天子・月天子を上首と為し、日月の宮殿に坐します。
各千光を放ちて金殿を照らす。
金殿の光、日宮殿を照らし、日宮殿の光、四天下を照らす。
夫の光明は、中道に順ひ、人君の吉昌、百姓の安寧也。
謂はゆる常住慈悲の神主とは、百億万劫の間、日月星辰の形を現はし、八百万の神等は、群生を利す。
故に名づけて本地大慈大悲観世音と曰ふ。
如来の仏智也。
ここでいう“常住慈悲の神主”とは、違細(ビシュヌ)であり、梵天であり、天御中主尊(アメノミナカヌシ)である“常住慈悲神王”のことでしょう。
“常住慈悲の神主”は、“常住慈悲神王”の誤写かもしれません。
ここで劫初の神聖である常住慈悲神王の本地が観世音菩薩である説かれていますが、観音菩薩が多くの神々を全身から生み出していく『仏説大乗荘厳宝王経』の説を連想させます。
星は日気の所生なり。
故に其の字、日と生とを星と為す也。
五星は経津主(ふつぬし)磐筒筒男神(いはつつのかみ)等の応変也〈謂はゆる天神七代の神は、則ち天の七星なり。
地神五代は、則ち地の五行の来る也〉。
賢劫の初地、建立してより以降、地肥地味の餅(べう)隠れし後、林藤(りんとう)生ずる也。
林藤隠れし後、粮米出づる也。
齦米失ひし後、香稲生ずる也。
米等を食ふに由りて、身光即ち滅し、世界黒闇なり。
天神七代を北斗七星、地神五代を五行に配当するのは『天地麗気記』と同じです。
※参考『天地麗気記』1
尓の時、常住慈悲大師尊王、日月星辰を作りて四天下を照らし、大衆等を度す。
斯(ここ)に因りて男女の形有り。
父子の道を著はす也。
尓の時漸く地味を耽(たしな)み、神足地を履みて下り、自在天子〈神語の諾冉の二柱の神なり〉に代りて、大八洲に降り居ます。
常住慈悲神王の教に任せて、日天子・月天子の二の大師を化生す〈謂(い)はゆる天子は、則ち天地の位なり。
故に徳、天地に侔(ひと)しければ、則ち天子と称する也。
天は父、地は母也。
之に因りて男を以て父と為し、女を以て母と為すは、是れ大悲の考也〉。
本願力に任せて、本の世界に還り、天地と与(とも)に窮り無く、日月と共に斉明なり。
日宮の中に入りて四天下を照らし、群霊を利し、百王を護るの誓願甚だ深し。
故に大日孁尊と名づく。
“常住慈悲大師尊王、日月星辰を作りて”とあります。
常住慈悲大師尊王は天御中主尊(アメノミナカヌシ)。
“日”=“日天子”=大日孁尊(オオヒルメ)とあり、大日孁尊(オオヒルメ)はの別名。
つまり、ここで天御中主尊(アメノミナカヌシ)が天照皇大神(アマテラス)を“作りて”と説かれているのです。
伊勢神宮外宮の御祭神は豊受大神ですが、中世は天御中主尊(アメノミナカヌシ)と同体であるとみなされてました。
つまり、伊勢の外宮の神が内宮の神を生み出したと読めるわけです。
これは、明治政府が目の敵にするわけです。
本従(もとよ)り盧舎那の心地は、気の霊を稟(う)くること有りて、仏性の種子なり。
故に一切衆生は自性清浄にして、我、是れ已に神胤也。
我、是れ已に仏子也。
すべての心ある生物(一切有情)の心の本性は仏性であり、それは盧舎那(大日如来)そのものです。
だからこそ、その気になって正しい師に就き、しっかりと修行すれば、誰もが仏陀になる可能性を持っているのです。
すべての人間を含めたすべての心ある生物が本質的には仏子であり、神胤であるといえるのです。
知人の僧侶で人生相談されると、相談者に対して度々「そのままでいいんですよ」と答えている方がいました。
後で、「そのままでいいなら相談しないわよ」と憤慨している相談者もおられました。
また、私が見た中では御一人だけ「そうなんですか!」と眼が開かれたようにうれしそうにしてた方もおられましたが、そんなものはしばらくすれば、何の解決にもなっていなかったことに気づかされたでしょう。
私がその答え方は良くないと指摘すると、その方は「みんな仏性を具えている仏さまなんです!仏さまがすることに過失はありません!そのままでいいんです!」と憤慨しました。
しかし、本質的に仏性を具えていても、現実に煩悩があれば、仏性は開顕されていないわけですから、仏陀ではありません。
本質的に仏陀であることと、現実に仏陀ではないことは矛盾しません。
一切の有心は、常住慈悲の心、孝順至道の法より起る。
是(かく)の如く信心し、頓首恭敬を作さば、無二の心地に至るなり。
“常住慈悲の心”とは、常住慈悲神王であり、天御中主尊(アアメノミナカヌシ)であり、大日如来であり、心の本性のことです。
“無二の心地”とは、二元論を超越した心の本性の境地です。
『大和葛城宝山記』解説5につづく